1:2016/05/21(土) 01:31:41.65 ID:
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▲(上)韓国戦争失踪者を偲ぶ「追憶の池」に泥が溜まっている。(下)韓国戦争参戦記念公園に数カ月が過ぎた花輪がそのまま放置されている。

「キム・ドクソン、ドクソン・キム…イ・ドンギュン、ドンギュン・リー…チェ・デスン、デスン・チョイ…」

来月25日、米国ワシントンD.C.の韓国戦争参戦記念公園(朝鮮戦争戦没者慰霊碑)にKATUSA(Korean Augmentation to the United States Army)4360人の名前が響き渡る。1950年7月から53年7月の停戦時まで、米軍部隊所属で北朝鮮・中国空軍と戦って戦死した者たちだ。KATUSA隊員は仁川(インチョン)と元山(ウォンサン)上陸作戦をはじめとして長津湖(チャンジンホ)の戦いなど北朝鮮の激戦地で米軍と共に戦った。

韓国戦争参戦勇士記念財団のウィリアム・ウェーバー会長は「KATUSA(当時の正式名称は『連合軍支援韓国軍』)の献身がなかったら、4360人の米軍兵士よりももっと多くの者が死に、彼らの両親・兄弟が涙を流しただろう点を米国と全世界に伝えたい」と話した。KATUSAが米国のために犠牲になったということを象徴するために、4360人の戦死者全員をハングルと英文の両方の名前で読み上げる。これまで、戦死した米軍3万6547人の名前を読み上げる呼名式はあったが韓国人戦死者を呼名するのは初めてだ。

だが一方で、その魂が眠る韓国戦争参戦記念公園の姿は荒廃しているのが現状だ。今月17日、ワシントンのリンカーン記念館前にV字型に立ち並んでいる軍人19人の彫刻像はあちこち塗装が剥がれひびが入っていた。失踪者を偲ぶ「追憶の池」には泥が溜まっていた。大理石に彫られた参戦国の名前はすぐに識別できないほどだった。観覧者も200メートル横の「ベトナム戦記念公園(ベトナム戦争戦没者慰霊碑)」の4分の1程度だった。

隣接したベトナム戦争公園には米国の児童生徒たちがていねいに書いた「Thank you」「Respect(尊敬)」と書かれた手紙と花がきちんと置かれていたが、韓国戦争公園には数カ月が過ぎたとみられる花輪2~3個だけが寂しく打ち捨てられていた。 テキサスから団体で来たという中学生は、花こう岩碑の「MET」という文字のうち「M」が取れて「ET」に変わっているのを見てくすくす笑った。

この上なく不十分な補修・維持費のせいで、このように韓国戦争記念公園の管理が困難に直面しているという話は昨年11月、ニューヨーク・タイムズに紹介された。韓国戦争に参戦した戦争英雄とその家族が動いた。

代表的な人物が武功勲章「シルバースター」、殊勲十字勲章に輝いたエドワード・クイン予備役少将(87)だ。エドワード氏は50年6月、ウェストポイント(陸軍士官学校)を卒業した直後、当時最後の橋頭堡だった釜山(プサン)に行き、鴨緑江(アムノッカン)まで上がったり下がったりを繰り返した。彼の同期も全員韓国戦争に派兵された。死のラインを越えた同期たちは南北戦争(1861~65年)を除き、1802年のウェストポイント開校以来、最も多い死傷者を記録した。

「同期たちがあの世の中でどれほど涙を流しているだろうか」とため息をつく兄エドワードを見ていた弟のジョン氏(64)が友人の夫人でロサンゼルスで共同体社会活動をしていたメリー・アーカート氏(57)に助けを求め、彼らはしていた仕事の手を止めてまで韓国戦争記念公園の復旧に乗り出した。

彼らは既存施設の維持・補修とともに「追慕のガラス壁」の建設を構想中だ。韓国戦争で戦死した米軍3万6547人の名簿、そして韓国軍の戦死者・負傷者数を刻んだ高さ2.2メートルの「追慕のガラス壁」を現記念公園の郊外周辺145メートルを取り囲むようにして作る計画だ。7年間無関心で一貫していた米下院を動かし、2月に関連法案を通過させた。上院でも早ければ来月中に通過する見込みだ。
(後略:必要な経費)

ソース:中央日報日本語版<放置されていたワシントンの韓国戦争公園、補修・維持に弾み>
http://japanese.joins.com/article/955/215955.html