1:2016/08/03(水) 18:05:44.97 ID:
「たった12隻で日本水軍113隻を撃破」李舜臣将軍の名言に誤り... - Record China
http://www.recordchina.co.jp/a146475.html
 
2016年8月2日、韓国・ノーカットニュースによると、1597年に朝鮮水軍が日本水軍を破った「鳴梁海戦」を描いた映画「鳴梁」で有名になった李舜臣将軍のセリフに誤りがあるとの指摘が出た。

映画で李将軍は、慶長の役当時に「漆川梁海戦」で朝鮮水軍が大敗した際、水軍を捨てて陸地で戦えという先祖の勧告に対し、「臣(私)にはまだ12隻の船が残っている」と述べる。その12隻の船で「鳴梁海戦」に挑み、日本水軍133隻を撃破するというのが映画の内容だが、実際に李将軍が率いた船は12隻ではなく13隻だったという。

文化財の返還活動を行う韓国の市民団体によると、「李将軍は鳴梁海戦で、13隻の朝鮮水軍を指揮し、133隻の日本水軍に勝利した」というのが歴史的な事実。牙山市顕忠祠の李舜臣記念館にも、13隻の船で戦ったと記されている。しかし、韓国文化庁はホームページや鳴梁海戦を記念するための石碑の説明板に「12隻の船で133隻の日本水軍を撃破した」と記載しているという。

これに対し、同市民団体は「日本植民地以降の波乱を経験した鳴梁海戦碑は、李将軍の勝戦を記念する石碑であり、日本の文化財破壊行為を証明する重要な歴史的資料だ。その大事な文化財の説明に、関係者の怠惰によって誤った事実が記載されているのを見逃すことはできない」と主張し、文化庁に説明文の誤りを認め、修正するよう求めた。

この報道に、韓国のネットユーザーは以下のようなコメントを寄せた。

「12隻だろうが13隻だろうが、どっちでもよくない?」
 
「数は重要じゃない。僕らが学ぶべきことは李将軍の精神だから」
 
「12隻でも13隻でもすごい奇跡を起こしたことに変わりはない」
 
「鳴梁海戦の前に1隻追加したんだよ」
 
「李将軍のような人が1人でも現れてくれれば、この国はもっとドラマティックに流れていくだろうに…」
 
「1隻は壊れた船を修理して使ったのだろう」
 
「15隻あれば、今ごろ日本は韓国の領土だったかも」
 
「文化財庁が文化財について知らないなんてことが許されるの?文化財庁の存在意義は?」
 
「歴史は正確に記録するべき」
 
「とんでもない間違いだ。12隻なら負けていただろうが、13隻だから勝ったということでは?」
 
(翻訳・編集/堂本)
 
=管理人補足=
「鳴梁」予告編
2014/06/25 に公開
 
チェ・ミンシク、リュ・スンリョン主演の映画「鳴梁」は、1597年 壬辰倭乱 6年、たった12隻の船で330隻にもいたる外軍の攻撃に立ち向かった「鳴梁大勝」を描いた作品で、7月30日に公開される予定だ。
 
以下、wikiより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E8%88%9C%E8%87%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E6%A2%81%E6%B5%B7%E6%88%A6
 
李 舜臣(り しゅんしん、朝鮮読み:イ・スンシン、1545年4月18日- 1598年12月16日);
韓国では、李舜臣は露梁海戦において「大敗した日本軍を追撃中に」「流れ弾に当たって」戦死したと一般に信じられており、日本の一部書籍においても、そのまま引用しているものが見受けられるが「流れ弾」については文献の裏づけはない。「追撃」については朝鮮側の史料である柳成龍『懲毖録』によるもので、李舜臣の死のことを「李舜臣は日本軍を大いに撃破し、これを追撃している最中に鉄砲の弾丸で戦死した」と記している。
 
一方で同じく朝鮮側史料である『乱中雑録』には、日本水軍と戦闘になった後、朝鮮水軍は主戦場であった海峡口から見て南西の観音浦(海戦前に朝鮮水軍が潜んでいた湾)へと一時後退しており、また李舜臣は日本船の船尾に伏せた兵の一斉射撃により撃ち倒されたと記されている。
 
『明史』では「鄧子龍の救援に赴き、死亡した」とのみ記されている。 日本側文献『征韓録』によれば、「小船で先出してきた鄧子龍が従卒200余兵とともに討ち取られるのを救援するために進出したところを、和兵に囲まれ船を乗っ取られた」とのみ記し、死に至る詳細については残されていない。
 
なお、韓国では英雄化が過ぎるあまり、戦死ではなく自ら死を選んだという説や、戦争を生き延びて隠遁生活を送って戦後に死亡したという説が唱えられることがあるが、この根拠となる史料は皆無である。

鳴梁海戦(めいりょうかいせん);
鳴梁渡海戦ともいい、豊臣秀吉の慶長の役により慶長二年(1597年)9月16日(和暦/以下同)に陸に呼応して西進した日本水軍と朝鮮水軍との間に起こった慶長の役における海戦の一つ。

朝鮮水軍のうち李舜臣の艦隊は日本水軍の先鋒を叩くことに成功したが、日本水軍本隊の圧力を支えきれず、当人達または13隻前後の主力艦の温存策を取って全羅道北端まで撤退したため、当該地域の制海権を失い、朝鮮水軍は非主力艦や根拠地を失った。朝鮮水軍の再進出は日本の陸軍と水軍の撤退を待たざるを得なかったため、鳴梁海戦は"戦略的には"この時点での朝鮮側の敗北となる。
 
現代の韓国ではこの戦いを“鳴梁大捷”と呼ぶなど「日本に大勝した海戦」と認識・宣伝しており、日本水軍の参加兵力が「軍船133隻、運送船200隻」、損失が「沈没31隻、大破92隻、8000〜9000人が戦死」とするなどの、史実・資料を鑑みないまま、つまり全く学術的な方面を無視して、戦果の誇張と思われる創作的な主張が行われることが多い。

どちらの立場にも立たずに史料を学術的に考察した場合、実際には、例えば船手衆として左軍に加わった日本水軍の兵力は藤堂高虎(2,800)、加藤嘉明(2,400)、脇坂安治(1,200)、来島通総(600)、菅平右衛門達長(200)の7,200名であり、これに若干の他家の水軍を加えたとしても8,000人に満たないと思われ、さらに鳴梁海戦においては大型船(安宅船)を用いず、中型船である関船を選抜して運用していた旨が「高山公実録」に記されていることからすれば、上記のような現代の韓国が宣伝する際に挙げる数字に無理があることは明白になる。
 
また、李舜臣自らが著した「乱中日記」には“賊船三十隻撞破”とあるだけであり、撃沈確認の記述もなく、また艦船に対し大損害を与えた旨の記述もなく、対戦した敵船の大きさも、(当然ながら)敵軍である日本側の戦死者数も記録されてはいない。同時に、自軍側に仮に軽微であっとしても、真っ当に戦闘を行っているならなにかしらの物的・人的な損害が出ているはずであるが、意図的にか、全く記録されていない。李舜臣将軍の自身による記述を信用した上で、その他の史料を合わせた場合、「朝鮮水軍は12〜14隻で、日本側水軍の先鋒の中型船30隻を攻撃したのち戦場離脱、当該海域の制海権を放棄し、その日の内に追撃の恐れのない遠方まで撤退」となる。
 
なお、韓国ではこの海戦は歴史教科書にも載っており、国民に広く知られているが、内容としては「西進しようとした日本軍に大打撃を与えてそれを阻止した」という記述で強調されており戦闘の内容、および戦後に李舜臣が北方に退却したために、日本側の水軍は西岸に進出して戦略目的を達成している、つまり制海権の放棄と艦隊の離脱逃走、日本軍を阻止できていないという史実は無視され、一般的にはほとんど認識されていない。
 
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