1:2016/09/04(日) 02:10:38.88 ID:
[gift&] 大韓民国代表清酒、茶礼酒にぴったり

[写真、ロッテ酒類] 白花壽福
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ロッテ酒類が名節(祝祭日)のギフト用に72年の伝統を持つ大韓民国代表清酒「白花壽福」を披露した。

「長生きしていつまでも福を享受しなさい」という意味を持った白花壽福は、もらう人への健康と幸福を祈る心が込められた我が国の代表清酒。国産米を100%原料として低温発酵工法と熟成方法を適用し、清酒特有の柔らかくすっきりとした味が際立つ。

ロッテ酒類関係者は「米の外皮を30%削り出し心を込めて醸成された白花壽福特有の深い香りと豊かな味わいで、冷やして飲んでも良し、温めて飲んでも良し、ご祖先様に捧げる祭礼用または秋夕の贈り物用に最適」と述べた。

名節茶礼用やギフト用の白花壽福は、製品の容量が700ml、1リットル、1.8リットルと3種ある。利便性や用途に合わせて選ぶことができる。消費者価格は一般的な小売店の基準で、700mlは5200ウォン、1リットルは7000ウォン、1.8リットルは1万1000ウォンだ。

清酒は米で作った醸造酒で、漢字の意味そのまま清い酒をいう。日帝強占期を経て清酒が日本式表現である「正宗」と呼ばれ、日本の伝統酒として知られている。

しかし、清酒は我が国伝統の酒だ。日本の古事記に「応神天皇の時(AD 270~312年)、百済人の仁番が日本に渡って清酒の製造技術を伝授した」という記録が伝わる。

ロッテ酒類の関係者は「白花壽福はご先祖様に捧げる清酒であるために厳選した米から心を込めて醸成した製品」とし、「価格も5000ウォン台から1万ウォン台まで多様で経済的な製品となっているので、祝祭日の朝、家族全員が一緒に茶礼を過ごし飲むのに良い酒」と言い添えた。

(後略...)

※茶礼
陰暦の毎月一日・十五日、民俗的な節日及び祖先の誕生日などに行う簡略な祭祀

ソース 中央日報(韓国語)
http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=102&oid=025&aid=0002640708

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http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1463714468/
 
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=管理人補足=
百済;
古代の朝鮮半島南西部にあった国家(346年? - 660年)。
wiki:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88

日本酒の歴史;
wiki:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%85%92%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

『論衡』、『魏志倭人伝』の記述
日本に酒が存在することを示す最古の記録は、西暦1世紀頃に成立した中国の思想書、『論衡』の記述に見られる。
 
「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八) 成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず。
「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六) 周の時、天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。

鬯草とは、酒に浸して作製した薬草のことであり、周の成王の時代(紀元前1000年頃)に日本列島内の何処かの国に何らかの酒類が存在した可能性を示唆している。 3世紀に成立した『三国志』東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)の記述にも酒に関する記述が見られる。(省略)
 
考古学的アプローチ
日本では、紀元前1000年前後の縄文式竪穴から、中国では酒造りに用いられていた酒坑(しゅこう)が発見されている。そこには、発酵したものに集まるショウジョウバエの仲間のサナギといっしょになって、エゾニワトコ、サルナシ、クワ、キイチゴなどの果実の断片が発見された。
米から造られた酒ではなさそうなので、日本酒の直接の祖先と言ってよいかは議論を待つところだが、日本における醸造の原初的な段階を物語るものとしてこれらの史跡も貴重である。

麹造りと醴酒(こざけ)
『古事記』には応神天皇(『新撰姓氏録』によれば仁徳天皇)の御世に来朝した百済人の須須許里(すすこり)が大御酒(おおみき)を醸造して天皇に献上したという記述がある。『新撰姓氏録』によれば、この献上を行なったのは兄曽曽保利と妹曽曽保利の二人ということになっており、この二人を酒の神として祀る神社もある[要出典]。百済からの帰化人が用いた醸造法ということであれば、それは麹によるものであったとみられる。
 
醴酒
しかし、この献上より前にも麹による酒造法は日本に存在しており、応神天皇19年に吉野の国樔(くず)が醴酒(こざけ)を献上したという記述が見られる。(省略)『延喜式』の記述によれば、その国樔が献上した酒でも醴酒という米と麹を使用して造る酒であったことがうかがえるので、麹による醸造法は当時既に全国的に普及していたと見られる。養老1年(717年)には美濃国から献上された醴泉で醴酒を造ったとの記述も『続日本紀』にある。
 
また、麹の種類の問題もある。現在中国や朝鮮半島で酒造用に用いられているのは麦麹(餅麹)がほとんどであり、その中身はクモノスカビやケカビが中心であるが、日本酒は米麹(バラ麹)であり、その中身は純粋なコウジカビである。朝鮮半島経由で麹による酒造法が伝えられたのであれば、それは当然麦麹であったはずで、日本にマッコリのような麦麹を用いた酒が存在した記録がない以上、朝鮮半島起源説は成り立たない。
 
朝廷による酒造り
造酒司
持統3年(689年)には飛鳥浄御原令に基づいて宮内省の造酒司(さけのつかさ / みきのつかさ 「造酒寮」とも)に酒部(さかべ)という部署が設けられた。701年(大宝元年)には大宝律令によってさらに体系化され、朝廷による朝廷のための酒の醸造体制が整えられていった。酒部は部署の名称だけでなく、今日の杜氏(とうじ)にあたる醸造技術者をも指す。造酒司の建物は、酒を醸造する甕がならんだ酒殿(さけどの)、精米をおこなう舎である臼殿(うすどの)、麹を造るための麹室(こうじむろ)の計三宇という配置であった。造酒司で造られる酒は麹は現在の製法と同じ米から造るばら麹で、米と麹と水を甕に入れて混ぜ合わせ、醗酵期間は十日ほどの薄い酒であった。

中古
『延喜式』(927年(延長5年))には宮内省造酒司の御酒槽のしくみが記されており、すでに現代の酒とそれほど変わらない製法でいろいろな酒が造られていたことがわかる。なかでも「しおり」と記される製法は、現代の貴醸酒が開発される基になった。(省略)
奈良菩提山正暦寺で産する銘酒『菩提泉』を醸す菩提酛(ぼだいもと)という酒母や、今でいう高温糖化法の一種である煮酛(にもと)などの技術によって優れた清酒を醸造していたが、この時代の清酒は量的にも些少であり、有力貴族など極めて限られた階層にしかゆきわたらなかったと考えられる。