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(イメージです。)


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:2016/09/25(日) 19:02:08.29 ID:
 統合進歩党(解散)の後身と見なされている「民衆連合党」の関係者が率いる団体が、「安重根(アン・ジュングン)義士記念事業会」の名前を掲げ、反米・反政府活動に参加する会員を募集していることが分かった。韓国で国民的な尊敬の対象となっている安重根(1879-1910)を、理念的に偏向した政治活動に利用しているというわけだ。

 「青年独立軍」という名前の団体は最近「2016年義烈団に加入しよう!青年独立軍新入会員募集」という広告を、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)に掲載した。同団体はこの広告で、青年独立軍の役割を「韓国史教科書の国定化反対、THAAD(終末高高度防衛ミサイル)配備反対など」と説明した。同団体は統合進歩党の解散に反対したハム・セウン神父(74)が理事長を務めている「安重根義士記念事業会」から後援を得ている。

 青年独立軍は、梨花女子大学の元総学生会長のソン・ヒヨン氏(26)代表を務めている。ソン氏は民衆連合党傘下の青年組織「土のスプーン(貧乏人の子弟)党」の設立に加わった103人のうちの一人だ。民衆連合党は2014年、憲法裁判所で「従北(北朝鮮に追従)反国家団体」との判決を受け解散させられた統合進歩党の出身者が主導して決定された。

 ソン氏が率いる青年独立軍は今年2月「斥洋斥倭 輔国安民(西洋や日本のやつらを追い出し、民衆のための国をつくろう)」という内容の「1万青年義兵運動」を宣言し、7月にはTHAAD配備反対などを訴える青年・学生の宣伝組織「アメリカNO」を結成した。

 同団体は会員を募集する上で安重根を積極的に活用している。同団体は今月24日、新たに加入した新入会員を対象に初のオリエンテーションを行う予定で、その中で行う講演のテーマとして「青年・安重根と韓国社会」を掲げた。青年独立軍として活動する会員には、「安重根義士記念事業会」名義の修了証書まで授与するという。

 「安重根義士記念事業会」は、ハム・セウン神父をはじめとするカトリック神父の団体「天主教正義具現全国司祭団」が中心となり、1999年に設立された団体だ。だが、一般国民に知られている安重根の記念事業を主導してきたのは「安重根義士崇慕会(以下、崇慕会)」だ。崇慕会は、安重根のおいの安椿生(アン・チュンセン)氏など独立運動家15人が中心となり、1963年に設立された。現在、国家報勲処(国家功労者を礼遇し、軍人・退役軍人の支援事業を行う省庁)から「安重根義士記念館」の管理・運営を委託されている。安重根が獄中で書き残した文章や、関連する写真なども、大部分は崇慕会が管理・展示している。

 ハム神父は統合進歩党が解散させられた当時、「統合進歩党強制解散反対と民主主義守護のための円卓会議」を主導し、内乱陰謀罪で実刑判決を受けた李石基(イ・ソクキ)元国会議員の釈放を求める「李石基議員内乱陰謀事件被害者韓国救命委員会」でも活動した。

 ハム神父が率いる「安重根義士記念事業会」は、2004年3月、北朝鮮の対南(韓国)工作員として活動したとして、国家保安法違反罪などで懲役2年6月、執行猶予5年の判決を受けた宋斗律(ソン・ドゥユル)氏に対し「安重根国際平和賞」を授与してもいる。同団体の事業計画には「安重根義士を韓国のチェ・ゲバラ(中南米の共産ゲリラ指導者)にしよう」という内容も盛り込まれている。崇慕会の関係者は、ハム神父らが率いる団体の活動について「国民から尊敬されている安重根義士を、特定の政治的な目的に活等するのは、故人を侮辱する行為だ」と主張している。

 崇慕会は昨年11月、ソウル市投資機関労働組合協議会が安重根の拇印(ぼいん)を利用し、韓国史教科書の国定化に反対するポスターを作製したとき、「安重根義士を、自分たちの都合のいいように、政治的な闘争にむやみに利用してはならない」として反対意見を述べた。

ムン・ヒョンウン記者

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/09/23/2016092301788.html
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/09/23/2016092301788_2.html
 
=管理人補足=
イメージ画像はチェ・ゲバラです。
 
エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ
(Ernesto Rafael Guevara de la Serna、1928年6月14日 - 1967年10月9日);
アルゼンチン生まれの政治家、革命家で、キューバのゲリラ指導者。
「チェ・ゲバラ」の呼び名で知られるが、「チェ」は主にアルゼンチンやウルグアイ、パラグアイで使われているスペイン語(リオプラテンセ・スペイン語をはじめとする諸方言)で「やぁ」、「おい」、「お前(親しみを込めた)」、「ダチ」といった砕けた呼び掛けである。
 
革命成就 
1958年12月29日にはこの第2軍300人を率いて政府軍6000人が迎え撃つキューバ第2の都市サンタ・クララに突入する。そこで、政府軍の武器と兵士を乗せた装甲列車を転覆させ政府軍を混乱させる。反乱軍を支援する多数の市民の加勢もあり、激戦の末にこれを制圧し、首都ハバナへの道筋を開いた。
1959年1月1日午前2時10分に、フルヘンシオ・バティスタがドミニカ共和国へ亡命し、1月8日カストロがハバナに入城、「キューバ革命」が達成された。闘争中の功績と献身的な働きによりキューバの市民権を与えられ、キューバ新政府の国立銀行総裁に就任するに至った。
 
再び革命の戦いへ、そして死
ゲバラは1965年中にコンゴ民主共和国に渡り、コンゴ動乱後混乱が続く現地で革命の指導を試みたが、コンゴの兵士達の士気の低さに失望する。
 
カストロとの会談の後、新たな革命の場として、かつてボリビア革命が起きたものの、その後はレネ・バリエントスが軍事政権を敷いており、南米大陸の中心部にあって大陸革命の拠点になるとみなしたボリビアを選んだ。
 
独自の革命理論に固執したため、親ソ的なマリオ・モンヘ率いるボリビア共産党からの協力が得られず、カストロからの援助も滞り、また革命によって土地を手に入れた農民は新たな革命には興味を持たなかった。さらに、西ドイツから逃亡して来ていた元ナチス親衛隊中尉クラウス・バルビーを顧問としたボリビア政府軍が、冷戦下において反共軍事政権を支持していたCIAとアメリカ陸軍特殊部隊群(グリーンベレー)の軍事顧問団から武器の供与と兵士の訓練を受けてゲリラ対策を練ったため、ここでも苦戦を強いられる事となる。
1967年10月8日、20名前後のゲリラ部隊とともに行動、アンデス山脈にあるチューロ渓谷の戦闘で、ガリー・プラド大尉率いる政府軍のレンジャー大隊の襲撃を受けて捕えられる。
CIAのフェリックス・ロドリゲスがイゲラで午前10時に「ゲバラを殺せ」を意味する暗号「パピ600」の電報を受信。午後0時40分にウィリーがベルナルディーノ・ワンカ軍曹にM1で銃殺された後、午後0時45分、政府軍兵士のマリオ・テラン軍曹に右脚の付け根と左胸、首の根元部分を計3発撃たれたが絶命せず、最終的には別の兵士に心臓を撃たれて死亡した。死亡の証拠として両手首を切り落とされ、遺体は無名のまま埋められた。
 
死後の影響と「帰国」
ゲバラの生涯と思想は、反米的思想を持つ西側の若者や、冷戦下における南アメリカ諸国の軍事政権・独裁政権下で革命を目指す者たちに熱狂的にもてはやされ、その写真は1960年代の後半頃からTシャツやポスターに印刷されるシンボルとなった。南アメリカ諸国の大学では、現在でもゲリラ時代のゲバラの顔を描いた大きな垂れ幕を掲げているところがある。
 
人物
誰よりもよく行動し、革命達成後も喘息を抱える身でありながら寝食を忘れて公務と勉学に励んだという。しかし、自己に課す厳格な規律を周囲の者にも求めたため、閣僚だった当時の部下からは「冷徹、尊大で、まるで我々の教師であるかのように振る舞う」と囁かれ、必ずしも好意は持たれていなかったとされる。ゲリラ軍に志願して来た農民にも、資格として読み書きが出来る成年者である事を最低限要求し、条件を満たさない者はどんなに熱意があろうと容赦なく切った。一方で民衆からはその勤勉ぶりを褒め称えられ、絶大な人気を得ていた。
  
wiki:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%90%E3%83%A9