1:2016/09/28(水) 22:30:47.26 ID:
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[インサイト]チャン・ヨンフン記者
 
96年前の今日は'大韓独立万歳'を叫んで祖国の独立運動の先頭に立ってきた柳寛順(ユ・グァンスン)烈士が18才という花のように美しい年齢で命を終えた日だ。

1919年3月1日午後2時。ソン・ビョンヒ先生をはじめとする民族代表33人はソウル仁寺洞(インサドン)の泰化観に集まって決意に充ちた声で独立宣言式を挙行して独立万歳を三唱した。日帝から奪われた国の自主権を取り戻そうと思う市民たちの熱望に充ちた叫びは太極旗の波と共に全国津々浦々に鳴り響いていった。

その年の4月1日、天安(チョナン)アウネ市場で人々に太極旗を配っていたユ・グァンスン烈士は独立万歳運動を主導した容疑で17才の若さで日本憲兵に逮捕され、西大門(ソデムン)刑務所に収監された。ユ・グァンスン烈士は日帝のぞっとする拷問にも祖国の独立のために命を捧げるかたい覚悟を折らないまま大韓独立万歳を号泣して叫んだ。
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▲西大門刑務所収監当時のユ・グァンスン烈士受刑者記録表/聯合ニュース

日帝はユ・グァンスン烈士の独立に対する意志を折ろうとペンチで爪と足の爪を強制的に抜いただけでは足らず残酷な性拷問まで醜悪な蛮行を止めなかった。

そうするうちに次の年の1920年9月28日。出獄をわずか二日残してユ・グァンスン烈士は花のように美しい18才の年に冷たい刑務所の床で祖国の独立を見ないまま短い命を終えた。ユ・グァンスン烈士は最後に目をとじる前「私の爪を抜き、私の耳と鼻が切られ、私の足が折れてもその苦痛は勝つことができるが、国をなくしたその苦痛だけは耐えることはできない。国に捧げる命がたった一つしかないことがこの少女の唯一の悲しみです」と遺言を残した。

冷たい刑務所の床で息をひきとる直前まで、ユ・グァンスン烈士の頭の中はすべて日帝から奪われた祖国の独立しかなかったのだ。一方、殉国後イテウォン共同墓地に安置されたユ・グァンスン烈士は日帝が軍用基地を作る過程で行方不明になり、昨年9月にたてた追悼碑だけがぽつんと残っている。

チャン・ヨンフン記者

ソース:インサイト(韓国語) ユ・グァンスン烈士が日帝から当てられた'ぞっとする拷問'と'最後の遺言'
http://www.insight.co.kr/newsRead.php?ArtNo=76787 
 
=管理人補足=
柳寛順
りゅうかんじゅん / ユグァンスン
(1904―1920)
 
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 
朝鮮の民族解放に殉じた少女。梨花学堂学生であった。15歳のときソウルの三・一独立運動に参加した学生リーダーの一人。学校閉鎖後、故郷の忠清南道に帰り、天安、燕岐(えんき)、清州、鎮川(ちんせん)など各地で運動の継起を企図した。並川市場蜂起(へいせんいちばほうき)を指揮して逮捕、投獄された。日本当局の拷問に屈せず、裁判の不当を糾弾し続け、民衆に民族独立の正当性、祖国愛の尊厳を教えた。拷問により病死。「朝鮮のジャンヌ・ダルク」ともいわれている。
 
コトバンク:https://kotobank.jp/word/%E6%9F%B3%E5%AF%9B%E9%A0%86-877819
 
柳寛順(ユ・グァンスン、1902年11月17日 - 1920年10月12日);
朝鮮の独立運動家。

1919年、三・一独立運動が勃発すると朝鮮総督府から各学校に対して休校命令が下された。故郷の天安に帰り、教会関係者などを通じて万歳デモを計画した。4月1日、柳寛順は並川市場に集まった群集に独立運動のアジ演説を行い、デモ行進に移った。しかし、日本の憲兵警察は群集に発砲し、柳寛順の父母も死亡した。
 
一審で暴力デモを主導した罪で懲役3年が宣告された。高等裁判所に上告せず、これが刑量になったが、減刑があり最終刑量は2年6ヶ月となった。しかし、その後も大規模獄中デモを主導するなど抵抗を続けた。1920年10月12日(旧暦9月28日)、西大門刑務所内で残酷な拷問により獄死したとされるが、死亡日時には諸説ある。
なお、天安市に「柳寛順体育館」がある。
 
韓国における評価
1962年、韓国政府がその功績を認めて建国勲章を授与し、独立烈士と呼ばれるようになった。天安市の生家近くには柳寛順烈士記念祠堂が設けられ、西大門刑務所も歴史館として一般公開されている。
 
wiki:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%AF%9B%E9%A0%86