1: :2016/09/30(金) 05:18:48.42 ID:
盧武鉉氏とともに、竹島問題を顕在化させたといわれる潘基文氏(共同)
2005年3月16日、島根県議会が「竹島の日」条例を制定したことが契機となり、竹島は再び日韓の係争の地となった。その竹島問題を顕在化させた“功労者”は、当時の韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領(故人)と潘基文(パン・ギムン)外交通商相(現国連事務総長)である。韓国側では、これまで「日韓の間に領土問題は存在しない」としてきた。それを潘氏が「竹島問題は日韓関係よりも上位概念」とし、盧大統領は竹島問題に対する持続可能な研究機関の設置を指示して、パンドラの箱を開けてしまったからだ。それが同年4月、当時大統領府政策室長だった金秉準(キム・ビョンジュン)氏を団長として発足した「東北アジアの平和のための正しい歴史定立企画団」である。
折に触れ竹島問題に言及した盧大統領
金氏が今年8月22日付の韓国の『毎日新聞』(電子版)で、「金秉準の対談」コーナーに独島学会会長の慎(シン)・ヨンハ氏を招き、当時の状況と竹島問題についてインタビューしている。
慎氏は、当時「韓日関係と独島(竹島)問題などに対するわれわれ(韓国側)の誤った対応」について指摘していた。金氏によれば、その指摘された問題点を「そのまま大統領と政府に伝達」し、それが「韓日関係と独島問題への対応に」「少なからぬ影響を及ぼした」のだという。
「バランサー」を自任した盧大統領は在任中、折に触れて竹島問題に言及し、日本の「歴史認識」を非難した。その盧大統領と韓国政府の竹島政策に「少なからぬ影響を及ぼした」のが慎氏なのだという。
その慎氏が語った「独島を韓国領とする論理」とはどのようなものだったのか。その一端を紹介してみたい。
竹島領有めぐり、日韓で異なる根拠
竹島問題の端緒は1952年1月18日、李承晩(イ・スンマン)大統領が「接続海岸に対する主権を宣言する」ため、「李ライン」を公海上に引き、竹島を韓国領としたことにある。日韓はその後、それぞれに竹島の領有権を主張してきた。
韓国側では、17世紀末に日本に渡って鳥取藩主と交渉し、欝陵島(うつりょうとう)と竹島を朝鮮領にしたとする安龍福(アン・ヨンボク)の証言を根拠に、欝陵島と竹島は韓国領になったとした。一方、日本側では江戸時代に幕府から「渡海免許」を得て欝陵島でアワビ取りやアシカ猟をしていた鳥取藩米子の大谷・村川両家の事績を根拠とした。
「金秉準の対談」で慎氏が問題にしたのは、その渡海免許であった。慎氏によると渡海免許は「欝陵島と独島が日本の領土でなかった」ので、鎖国政策を布(し)いていた江戸幕府が、「外国に出ていけるよう」に許可したものだとしている。
渡海免許と朱印状の混同による誤解
だが、それは欝陵島へ渡ることを認めた渡海免許を、海外渡航時に必要な「朱印状」と混同した、慎氏の誤解である。
慎氏は社会学者だそうだが、近世の日本と朝鮮は、その社会体制が大きく異なっていた。同じ儒教文化圏に属していても、日本は地方分権的な「封建制」で、朝鮮は中央集権的な「郡県制」であった。
鳥取藩米子の大谷・村川両家が幕府から渡海免許を与えられたのは、1618年に池田光政が姫路から鳥取に国替えした際、幕府から派遣されていた監使役の阿部四郎五郎を通じて、欝陵島への渡海を願い出たからである。
そのため大谷家では、欝陵島に渡る際は、徳川家の家紋である葵の船印を掲げ、鳥取藩が発給した「往来手形」を所持していた。一般的に往来手形は国内の通交証として必要だったからだ。
さらに誤植かもしれないが、慎氏は、渡海免許を与えられたのは「島根県の2つの漁師一族」としている。明らかな誤りである。渡海免許は、島根県ではなく鳥取藩米子(現鳥取県)の大谷・村川の両家に与えられ、その生業は廻船業であった。
http://www.sankei.com/west/news/160930/wst1609300002-n1.html
(>>2以降に続く)
=管理人補足=
2005年3月16日、島根県議会が「竹島の日」条例を制定したことが契機となり、竹島は再び日韓の係争の地となった。その竹島問題を顕在化させた“功労者”は、当時の韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領(故人)と潘基文(パン・ギムン)外交通商相(現国連事務総長)である。韓国側では、これまで「日韓の間に領土問題は存在しない」としてきた。それを潘氏が「竹島問題は日韓関係よりも上位概念」とし、盧大統領は竹島問題に対する持続可能な研究機関の設置を指示して、パンドラの箱を開けてしまったからだ。それが同年4月、当時大統領府政策室長だった金秉準(キム・ビョンジュン)氏を団長として発足した「東北アジアの平和のための正しい歴史定立企画団」である。
折に触れ竹島問題に言及した盧大統領
金氏が今年8月22日付の韓国の『毎日新聞』(電子版)で、「金秉準の対談」コーナーに独島学会会長の慎(シン)・ヨンハ氏を招き、当時の状況と竹島問題についてインタビューしている。
慎氏は、当時「韓日関係と独島(竹島)問題などに対するわれわれ(韓国側)の誤った対応」について指摘していた。金氏によれば、その指摘された問題点を「そのまま大統領と政府に伝達」し、それが「韓日関係と独島問題への対応に」「少なからぬ影響を及ぼした」のだという。
「バランサー」を自任した盧大統領は在任中、折に触れて竹島問題に言及し、日本の「歴史認識」を非難した。その盧大統領と韓国政府の竹島政策に「少なからぬ影響を及ぼした」のが慎氏なのだという。
その慎氏が語った「独島を韓国領とする論理」とはどのようなものだったのか。その一端を紹介してみたい。
竹島領有めぐり、日韓で異なる根拠
竹島問題の端緒は1952年1月18日、李承晩(イ・スンマン)大統領が「接続海岸に対する主権を宣言する」ため、「李ライン」を公海上に引き、竹島を韓国領としたことにある。日韓はその後、それぞれに竹島の領有権を主張してきた。
韓国側では、17世紀末に日本に渡って鳥取藩主と交渉し、欝陵島(うつりょうとう)と竹島を朝鮮領にしたとする安龍福(アン・ヨンボク)の証言を根拠に、欝陵島と竹島は韓国領になったとした。一方、日本側では江戸時代に幕府から「渡海免許」を得て欝陵島でアワビ取りやアシカ猟をしていた鳥取藩米子の大谷・村川両家の事績を根拠とした。
「金秉準の対談」で慎氏が問題にしたのは、その渡海免許であった。慎氏によると渡海免許は「欝陵島と独島が日本の領土でなかった」ので、鎖国政策を布(し)いていた江戸幕府が、「外国に出ていけるよう」に許可したものだとしている。
渡海免許と朱印状の混同による誤解
だが、それは欝陵島へ渡ることを認めた渡海免許を、海外渡航時に必要な「朱印状」と混同した、慎氏の誤解である。
慎氏は社会学者だそうだが、近世の日本と朝鮮は、その社会体制が大きく異なっていた。同じ儒教文化圏に属していても、日本は地方分権的な「封建制」で、朝鮮は中央集権的な「郡県制」であった。
鳥取藩米子の大谷・村川両家が幕府から渡海免許を与えられたのは、1618年に池田光政が姫路から鳥取に国替えした際、幕府から派遣されていた監使役の阿部四郎五郎を通じて、欝陵島への渡海を願い出たからである。
そのため大谷家では、欝陵島に渡る際は、徳川家の家紋である葵の船印を掲げ、鳥取藩が発給した「往来手形」を所持していた。一般的に往来手形は国内の通交証として必要だったからだ。
さらに誤植かもしれないが、慎氏は、渡海免許を与えられたのは「島根県の2つの漁師一族」としている。明らかな誤りである。渡海免許は、島根県ではなく鳥取藩米子(現鳥取県)の大谷・村川の両家に与えられ、その生業は廻船業であった。
http://www.sankei.com/west/news/160930/wst1609300002-n1.html
(>>2以降に続く)
=管理人補足=