1: :2016/11/07(月) 11:36:56.29 ID:
天皇ゆかりの品などの宝物を納めた日本・奈良県の正倉院に所蔵されている「赤漆欟木厨子」(仏像や経典などを入れるケヤキの物入れ)が、韓半島(朝鮮半島)に由来したものである可能性を示す証拠が見つかった。正倉院所蔵の赤漆欟木厨子は、日本の皇室の正当性を象徴する文化財と見なされるほど注目度の高い宝物だ。
韓国の国立慶州博物館(ユ・ビョンハ館長)は6日「1970年代に慶州の月池(雁鴨池)で出土した『花鳥紋(花と鳥の文様)骨装飾』200点を保存処理する作業中に、この骨装飾が物入れの縁を飾るのに使われていたことを確認した。端に薄い縁をもう一つ当てて釘打ちをした手法が、正倉院に所蔵されている赤漆欟木厨子の縁の装飾技法とよく似ている」と伝えた。
韓国の学界ではこれまで、正倉院に所蔵されている金銅製のはさみなどが月池から出土した遺物に似ており、また正倉院の複数の物入れの装飾文様が月池で出土した花鳥紋骨装飾の文様と似ていることから、正倉院の文化財の相当数が朝鮮半島に由来したものである可能性が提起されていた。
国立慶州博物館はまた、骨装飾1点の裏面に「小花釘百八十二 鋒(または金へんに聿)釘六十」という11字の墨跡が見つかったと明らかにした。同博物館のチョン・ヒョス学芸研究士は先月28日の学会で、こうした内容の研究結果を発表した。
■「花鳥紋骨装飾は直方体の立体物の装飾用」
月池は今から1300年ほど前、三国統一の直後に造成された慶州・月城の別宮のハス池だ。1975年から2年間にわたり発掘調査を行ったところ、3万点余りの遺物が出土した。動物の骨に花草や鳥の文様を彫った、統一新羅時代の「花鳥紋骨装飾」200点余りもこのときに出土した。動物の骨を割って薄い板状に加工し、一定の間隔で円形の穴を開け、穴と穴の間に花草や鳥の文様を彫り込んだ。最も長いものは23センチほど、最も短いものは6センチほどだ。
チョン氏は、約200点の骨装飾の長さを合計すると13メートルを超え、釘穴の間隔は約5.7センチ、約6.5センチ、約7.0センチの3種類だったと説明。その上で「これまで、用途をめぐり長さを測る物差し、屏風の装飾など見解が分かれていたが、直方体の立体物を飾るためのものだったことが確認された」と伝えた。骨装飾1点の裏面に書かれていた墨跡は、釘の注文または納品確認用と推定される。
■「正倉院の厨子の縁装飾と類似」
チョン氏は骨装飾の花鳥紋と正倉院所蔵品の文様も比較した。チョン氏は「正倉院所蔵品のうち、碁石、定規、木箱、机など相当数の文化財で、月池の骨装飾の花鳥紋と同じ、または似ている文様が確認された。正倉院の箱類には骨装飾の鳥文様、金銅花文様装飾の花文様が同時に見られ、月池で出土した金銅花文様装飾と同じ文様が縁に一定の間隔で施されている」と説明した。
チョン氏が花鳥紋骨装飾の文様と全体の長さ、釘穴の間隔などを基に▲サイズの大きい厨子類のうち花や鳥の文様、または飾り釘が使われているもの▲文様や釘の間隔が2-3種類の立体物▲文様や釘の間隔が合計5メートル、10メートルに達するもの―を探したところ、正倉院に所蔵された厨子類、その中でも赤漆欟木厨子の縁の装飾と非常に似ていた。赤漆欟木厨子は高さ1メートル、幅85センチ。縁の装飾に使われた釘は約230個だ。チョン氏は「月池の骨装飾は小型の板仏、水晶類と一緒に出土した。赤漆欟木厨子の収納物の中に水晶類がある点も似ている」と説明している。
興味深いのは日本国内の記録だ。756年に作成された正倉院記録「国家珍宝帳」によると、正倉院には赤漆欟木厨子が2点あり、1点は聖武天皇の所蔵品、もう1点は百済の義慈王が朝廷の実力者だった藤原鎌足(614-669年)に与えたものと記述されている。2点のうち1点は失われ、今の正倉院には1点だけ残っているが、日本国内では聖武天皇のものだという見方が優勢だ。人間国宝の漆工芸家・黒田辰秋氏(1904-1982年)はこの厨子を研究した上で「朝鮮半島で製作されたもの」と明言した。
韓国・国立弥勒寺址遺物展示館のイ・ビョンホ館長は「正倉院の厨子の縁装飾が月池の遺物と同じ技法で作られたということは、朝鮮半島で製作されて日本に渡った可能性を示している」と話した。
許允僖(ホ・ユンヒ)記者
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/11/07/2016110701240.html
=管理人補足=
厨子(ずし);
仏像・仏舎利・教典・位牌などを中に安置する仏具の一種である。広義では仏壇も厨子に含まれる。
歴史的な作品としては法隆寺の玉虫厨子や正倉院の赤漆文欟木御厨子が有名。
正倉院 正倉院の代表的な宝物
赤漆文欟木御厨子(せきしつぶんかんぼくのおんずし)
漆塗りの物入れ。高102cm。正倉院の中で最も由緒があり、飛鳥時代の天武天皇(?-686)まで遡る天武天皇の遺愛の品である。「古様作」とあることから、天武天皇の時代に作成された本厨子は、1300年前の当時から見ても古い様式であったようである。天武天皇→持統天皇→文武天皇→元正天皇→聖武天皇→孝謙天皇と受け継がれ、孝謙天皇が東大寺に献納した。国家珍宝帳によれば天皇の身近に置かれ、聖武天皇筆の「雑集」、元正天皇筆の「考経」、光明皇后筆の「楽毅論」、王羲之の書法20巻、刀子、笏など天皇の身の回りの宝物が大切に納められていたようである。元正天皇筆の「考経」などは失われて現存していないが、聖武天皇筆の「雑集」、光明皇后筆の「楽毅論」などは現存している。天武天皇から始まり6代もの天皇に伝えられた本厨子は、正倉院宝物の中でも特異な存在である。
wiki:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%A8%E5%AD%90(画像あります。)
wiki:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%80%89%E9%99%A2(画像あります。)
韓国の国立慶州博物館(ユ・ビョンハ館長)は6日「1970年代に慶州の月池(雁鴨池)で出土した『花鳥紋(花と鳥の文様)骨装飾』200点を保存処理する作業中に、この骨装飾が物入れの縁を飾るのに使われていたことを確認した。端に薄い縁をもう一つ当てて釘打ちをした手法が、正倉院に所蔵されている赤漆欟木厨子の縁の装飾技法とよく似ている」と伝えた。
韓国の学界ではこれまで、正倉院に所蔵されている金銅製のはさみなどが月池から出土した遺物に似ており、また正倉院の複数の物入れの装飾文様が月池で出土した花鳥紋骨装飾の文様と似ていることから、正倉院の文化財の相当数が朝鮮半島に由来したものである可能性が提起されていた。
国立慶州博物館はまた、骨装飾1点の裏面に「小花釘百八十二 鋒(または金へんに聿)釘六十」という11字の墨跡が見つかったと明らかにした。同博物館のチョン・ヒョス学芸研究士は先月28日の学会で、こうした内容の研究結果を発表した。
■「花鳥紋骨装飾は直方体の立体物の装飾用」
月池は今から1300年ほど前、三国統一の直後に造成された慶州・月城の別宮のハス池だ。1975年から2年間にわたり発掘調査を行ったところ、3万点余りの遺物が出土した。動物の骨に花草や鳥の文様を彫った、統一新羅時代の「花鳥紋骨装飾」200点余りもこのときに出土した。動物の骨を割って薄い板状に加工し、一定の間隔で円形の穴を開け、穴と穴の間に花草や鳥の文様を彫り込んだ。最も長いものは23センチほど、最も短いものは6センチほどだ。
チョン氏は、約200点の骨装飾の長さを合計すると13メートルを超え、釘穴の間隔は約5.7センチ、約6.5センチ、約7.0センチの3種類だったと説明。その上で「これまで、用途をめぐり長さを測る物差し、屏風の装飾など見解が分かれていたが、直方体の立体物を飾るためのものだったことが確認された」と伝えた。骨装飾1点の裏面に書かれていた墨跡は、釘の注文または納品確認用と推定される。
■「正倉院の厨子の縁装飾と類似」
チョン氏は骨装飾の花鳥紋と正倉院所蔵品の文様も比較した。チョン氏は「正倉院所蔵品のうち、碁石、定規、木箱、机など相当数の文化財で、月池の骨装飾の花鳥紋と同じ、または似ている文様が確認された。正倉院の箱類には骨装飾の鳥文様、金銅花文様装飾の花文様が同時に見られ、月池で出土した金銅花文様装飾と同じ文様が縁に一定の間隔で施されている」と説明した。
チョン氏が花鳥紋骨装飾の文様と全体の長さ、釘穴の間隔などを基に▲サイズの大きい厨子類のうち花や鳥の文様、または飾り釘が使われているもの▲文様や釘の間隔が2-3種類の立体物▲文様や釘の間隔が合計5メートル、10メートルに達するもの―を探したところ、正倉院に所蔵された厨子類、その中でも赤漆欟木厨子の縁の装飾と非常に似ていた。赤漆欟木厨子は高さ1メートル、幅85センチ。縁の装飾に使われた釘は約230個だ。チョン氏は「月池の骨装飾は小型の板仏、水晶類と一緒に出土した。赤漆欟木厨子の収納物の中に水晶類がある点も似ている」と説明している。
興味深いのは日本国内の記録だ。756年に作成された正倉院記録「国家珍宝帳」によると、正倉院には赤漆欟木厨子が2点あり、1点は聖武天皇の所蔵品、もう1点は百済の義慈王が朝廷の実力者だった藤原鎌足(614-669年)に与えたものと記述されている。2点のうち1点は失われ、今の正倉院には1点だけ残っているが、日本国内では聖武天皇のものだという見方が優勢だ。人間国宝の漆工芸家・黒田辰秋氏(1904-1982年)はこの厨子を研究した上で「朝鮮半島で製作されたもの」と明言した。
韓国・国立弥勒寺址遺物展示館のイ・ビョンホ館長は「正倉院の厨子の縁装飾が月池の遺物と同じ技法で作られたということは、朝鮮半島で製作されて日本に渡った可能性を示している」と話した。
許允僖(ホ・ユンヒ)記者
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/11/07/2016110701240.html
=管理人補足=
厨子(ずし);
仏像・仏舎利・教典・位牌などを中に安置する仏具の一種である。広義では仏壇も厨子に含まれる。
歴史的な作品としては法隆寺の玉虫厨子や正倉院の赤漆文欟木御厨子が有名。
正倉院 正倉院の代表的な宝物
赤漆文欟木御厨子(せきしつぶんかんぼくのおんずし)
漆塗りの物入れ。高102cm。正倉院の中で最も由緒があり、飛鳥時代の天武天皇(?-686)まで遡る天武天皇の遺愛の品である。「古様作」とあることから、天武天皇の時代に作成された本厨子は、1300年前の当時から見ても古い様式であったようである。天武天皇→持統天皇→文武天皇→元正天皇→聖武天皇→孝謙天皇と受け継がれ、孝謙天皇が東大寺に献納した。国家珍宝帳によれば天皇の身近に置かれ、聖武天皇筆の「雑集」、元正天皇筆の「考経」、光明皇后筆の「楽毅論」、王羲之の書法20巻、刀子、笏など天皇の身の回りの宝物が大切に納められていたようである。元正天皇筆の「考経」などは失われて現存していないが、聖武天皇筆の「雑集」、光明皇后筆の「楽毅論」などは現存している。天武天皇から始まり6代もの天皇に伝えられた本厨子は、正倉院宝物の中でも特異な存在である。
wiki:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%A8%E5%AD%90(画像あります。)
wiki:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%80%89%E9%99%A2(画像あります。)